その歴史は、概ね以下の時期に分類できます。黎明期(1965年~1980年)、第一次日本語ブーム期(1980年代~1990年代)、第二次日本語ブーム期(2000年以降)、そしてコロナ後の現代です。それぞれの時期は、日本語教育の背景や社会的な位置づけが大きく変化してきたことを物語っています。
黎明期:経済発展のパートナーとしての日本語
建国直後、シンガポールは経済発展を最優先課題とし、積極的に外国企業を誘致しました。日本はその中でも最も有力な経済パートナーとされ、多数の日系企業が進出しました。政府は恐怖と苦難の日本侵略に対して「許そう、しかし忘れまい」というメッセージを掲げ、協力関係を推進しました。
第一次日本語ブーム期:エリート教育としての日本語
1981年にシンガポール国立大学の日本研究学科が設立され、言語だけでなく経済、政治、文化、歴史を包括的に学ぶ教育が始まりました。造船や医療、高額商品分野など、実用的な分野での日本留学を奨励し、エリート教育の一環として日本語教育を強化しました。1987年には教育省語学センターが設立され、優秀な中高生を対象に放課後に日本語を特訓するなど、体系的な教育が進められました。シンガポールポリテクニック(1983年)や南洋工科大学(1991年)などの高等教育機関でも日本語コースが開設され、民間教育機関の増加が日本語教育をさらに支えました。シンガポール日本文化協会では年間2000人もの社会人が日本語を学び、企業人や公務員、タクシー運転手に至るまで幅広い層が日本語を学びました。このように、1980年代から1990年代にかけて、日本経済の急成長とともに第一次日本語ブーム期を迎えたのです(郭・奥村他 2009)。
しかし、日本経済の低迷により、政府は次第に日本語教育への支援を縮小します。日本への留学に対する評価も低下し、学業成果や行動面での問題も指摘されるようになりました。日本の大学で英語で学ぶのなら「欧米の大学のほうが学べる」「シンガポールで学んだ方が日本語が上達する」といった風潮が生まれたのです。こうして、かつてはエリートの証でもあった日本語への意識は薄れていきました(ウォーカー2019)。
第二次日本語ブーム期:ポップカルチャーの隆盛による日本語
2000年代以降、日本語学習の主な推進力は、ポップカルチャーにシフトしました。日本のテレビドラマ、マンガ、アニメといった大衆文化がシンガポール社会に浸透し、親日感情も深まりました。幼少期より家族と日本のドラマを楽しんだり、「仮面ライダー」にあこがれたりした世代が大学に進学し、日本語を学びたいと考えるようになったのです。そして、大衆文化を研究する学生も増え、第二次日本語ブーム期を迎えました。しかし、日本経済の鈍化や東日本大震災などにより、日本語教育は新たな課題に直面します。年間1000名もの学習者を抱えていたポリテクニックの日本語コースは次々と閉鎖され、親日感情を湧き起こしたTVドラマなども放映されなくなり、韓流ブームがそれに代わり、「韓国語が満員なので仕方なく日本語を取る」という状況も生まれました。