2025年3月号(No.652)バックナンバー

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シンガポールの日本語教育~多言語社会における発展と未来へのキャリア展望~

NATIONAL UNIVERSITY OF SINGAPORE
Associate Professor, Director of the Centre for Language Studies

ウォーカー 泉(Izumi WALKER)

はじめに

シンガポールにおける日本語教育は、建国以来、外国語教育の中でも特に注目を集め、最も人気のある外国語として確固たる地位を築いてきました。しかし、その背後には、時代の変化や社会的・経済的な潮流の中で奮闘し続ける日本語教師たちのたゆまぬ努力と情熱がありました。本稿では、四半世紀にわたりシンガポールの日本語教育に従事してきた筆者の立場から、シンガポールの日本語教育がどのように発展してきたのか、その歴史を振り返るとともに、現在直面している課題を明らかにし、未来への展望について考察します。この小さな都市国家で紡がれてきた日本語教育の歩みは、少子高齢化の中で多文化多言語社会へ向かう日本の未来へ有用なヒントを与えてくれるのではないでしょうか。

 

シンガポールの日本語教育の歴史

シンガポールは、世界の中でも最も日本語学習熱が高い国の一つだと言えます。図1が示す通り、学生数は目立たないものの、人口10万人あたりの学習者密度は、東南アジアでタイに続く第2位、世界的には韓国、台湾、モンゴル、香港、タイに続く第6位となっています。

その歴史は、概ね以下の時期に分類できます。黎明期(1965年~1980年)、第一次日本語ブーム期(1980年代~1990年代)、第二次日本語ブーム期(2000年以降)、そしてコロナ後の現代です。それぞれの時期は、日本語教育の背景や社会的な位置づけが大きく変化してきたことを物語っています。

 

黎明期:経済発展のパートナーとしての日本

建国直後、シンガポールは経済発展を最優先課題とし、積極的に外国企業を誘致しました。日本はその中でも最も有力な経済パートナーとされ、多数の日系企業が進出しました。政府は恐怖と苦難の日本侵略に対して「許そう、しかし忘れまい」というメッセージを掲げ、協力関係を推進しました。

第一次日本語ブーム期:エリート教育としての日本

1981年にシンガポール国立大学の日本研究学科が設立され、言語だけでなく経済、政治、文化、歴史を包括的に学ぶ教育が始まりました。造船や医療、高額商品分野など、実用的な分野での日本留学を奨励し、エリート教育の一環として日本語教育を強化しました。1987年には教育省語学センターが設立され、優秀な中高生を対象に放課後に日本語を特訓するなど、体系的な教育が進められました。シンガポールポリテクニック(1983年)や南洋工科大学(1991年)などの高等教育機関でも日本語コースが開設され、民間教育機関の増加が日本語教育をさらに支えました。シンガポール日本文化協会では年間2000人もの社会人が日本語を学び、企業人や公務員、タクシー運転手に至るまで幅広い層が日本語を学びました。このように、1980年代から1990年代にかけて、日本経済の急成長とともに第一次日本語ブーム期を迎えたのです(郭・奥村他 2009)。

しかし、日本経済の低迷により、政府は次第に日本語教育への支援を縮小します。日本への留学に対する評価も低下し、学業成果や行動面での問題も指摘されるようになりました。日本の大学で英語で学ぶのなら「欧米の大学のほうが学べる」「シンガポールで学んだ方が日本語が上達する」といった風潮が生まれたのです。こうして、かつてはエリートの証でもあった日本語への意識は薄れていきました(ウォーカー2019)。

第二次日本語ブーム期:ポップカルチャーの隆盛による日本語

2000年代以降、日本語学習の主な推進力は、ポップカルチャーにシフトしました。日本のテレビドラマ、マンガ、アニメといった大衆文化がシンガポール社会に浸透し、親日感情も深まりました。幼少期より家族と日本のドラマを楽しんだり、「仮面ライダー」にあこがれたりした世代が大学に進学し、日本語を学びたいと考えるようになったのです。そして、大衆文化を研究する学生も増え、第二次日本語ブーム期を迎えました。しかし、日本経済の鈍化や東日本大震災などにより、日本語教育は新たな課題に直面します。年間1000名もの学習者を抱えていたポリテクニックの日本語コースは次々と閉鎖され、親日感情を湧き起こしたTVドラマなども放映されなくなり、韓流ブームがそれに代わり、「韓国語が満員なので仕方なく日本語を取る」という状況も生まれました。

その当時、シンガポール日本語教師の会会長を務めていた私は、大きな危機感を抱きました。欧米諸国で次々と日本語コースが閉鎖、縮小されている状況の中、このままではシンガポールの日本語教育も衰退してしまうのではないかと恐れたのです。そこで、そのような懸念を教師たちに伝え、皆一丸となって日本語教育の更なる発展に向けて取り組み始めました。定期的に教育セミナーを開催し教育の質をあげる、先輩トークを行い、学生たちに日本語学習を継続するように励ます、日本人コミュニティとの交流や企業と連携したプロジェクトを行い親日感情を高める、産官学の代表を招いて日本語教育国際会議を開催し、日本語学習の意義をアピ―ルするといった活動です(ウォーカー他2018)。

日本語教育国際大会2017
NUSでの先輩トーク

そのような努力が実り、コロナにより外国語学習者全体が減少した中で、日本語は最も早く回復を見せました。円安や和食ブーム、日本旅行人気もそこに拍車かけています。幼少期から家族と日本旅行を楽しんだ体験を持つ子供たちは、言葉をマスターすることにより、自由に、かつ、よりディープに日本を楽しみたいと思って学習を始めるようになりました。地元料理や自然との触れ合いも日本語学習の動機付けになっています。アニメやゲームに魅了された子供たちは、翻訳なしに楽しめるようになりたいと思って独学し、大学入学時にはすでに中上級レベルに到達している学生も増えています。また、学習を進めるうちに日本文化の奥深さや、相手を思いやる日本人のやさしさ、日本語の響きなど言葉そのものに惹かれる学習者も少なくありません。現代の日本で忘れかけている価値観を見出しているとも言えましょう。このような昨今の状況から、第三次日本語ブームの到来を期待しています。

 

シンガポールの日本語教育の特徴

 シンガポールの日本語教育には、以下のような特徴があります。

第一の特徴:第三言語としての日本語教育

シンガポールにおける日本語教育の最大の特徴は、学習者が日本語を英語と母語(中国語、マレー語、タミール語)に続く第三言語として学んでいる点です。シンガポールの多言語環境は一見恵まれているように思えますが、二言語を母語レベルで習得することは決して容易ではありません。そのため、シンガポール政府は教育課程での負担を軽減するために、初等教育では日本語を導入せず、中等教育でも成績優秀者のみに日本語学習の機会を与えているのです。

第二の特徴:大学での大規模な日本語教育

第一の特徴により、多くの学生が大学で初めて日本語を学び始めます。それに加えて、日本語を開設している高等教育機関も限られているため、大学では年間1000名を超える学習者を対象に大規模な日本語教育が行われています。しかし、外国語は選択科目としてしか位置づけられていない上、シンガポール国立大学以外の大学では初中級レベルまでしか開講されていないなどの理由から、大半の日本語学習者が初級レベルにとどまってしまうという現状があります。

第三の特徴:日本語学校の高比率

日本語教育機関における語学学校の割合が極めて高いこともシンガポールならではの特徴です。その背景には、中等教育で日本語を学ぶ機会が乏しいことや、大学の厳しい成績競争を避けて語学学校を選ぶ学生がいること、さらには社会人になってからも学び続ける成人学習者が多いことなどがあります。しかしながら、ここ数年の外国人労働者の雇用制限や最低給与の高騰などにより、日本語学校の経営が困難となり、閉鎖が続いています。これは、シンガポールの日本語教育にとって重要な問題だと言えます(ウォーカー 2024)。

第四の特徴:日本語教師の会による取り組み

日本語は世界でも習得が難しい言語とされており、限られた授業時間内で初級以上の学習者を育てるためには、高度な教授力が求められます。しかし、筆者が2000年にシンガポールに赴任した時には、海外の日本語教育を支援している国際交流基金事務所が存在せず、教師間のネットワークや教授力を高める機会も皆無なことに衝撃を受けました。そこで、2001年に主要教育機関の有志とともに「シンガポール日本語教師の会」を設立しました。それ以降、教育セミナーの開催や教師間ネットワークの構築、大使館や日系企業、地元日本人コミュニティと連携した日本語関連行事の支援など、多岐にわたる活動を行っています。2015年と2017年には、日本を母体とするビジネス日本語研究会と協力し、企業、行政、東南アジアの日本語教育代表者、日系企業で活躍する卒業生を招いて日本語教育国際大会とビジネス日本語教育国際大会を開催しました。これらの成果が認められ、主要日本語教育国が集うグローバルネットワークへ13か国目として加盟できました。

シンガポール国立大学の日本語教育

シンガポール国立大学(NUS)では、1981年にわずか54名の学習者を対象に始まった日本語教育が、現在では年間1400名以上の学習者を抱える規模にまで成長しました。2001年に語学教育研究センター(CLS)が設立され、日本語教育が日本研究学科から同センターに移行しました。CLSでは、全学部の学生を対象に13の外国語プログラムを提供していますが、日本語はその中で最も人気のある科目となっています。毎学期、全外国語履修者の4分の1以上が日本語を選択し、常勤・非常勤合わせて20名以上の教員が指導にあたるという、海外の日本語教育機関として最大級の規模を誇っています。

NUSにおける日本語教育の最も重要な目的は、日本と友好関係を築く人材の育成にあります。2025年現在、初級(レベル1)から上級(レベル6)までの一般コースに加え、ビジネス日本語やメディア日本語など専門的なコースも開講しています。その教育は、以下のような特徴をもっています。

シンガポール国立大学の日本語教育 1
シンガポール国立大学の日本語教育 2
  • 第三言語としての学習を生かす:英語と母語(中国語、マレー語、タミール語)に続く日本語学習の特性を活かし、既習言語の知識を応用できる教授法を用いています。講義では英語を使用し、演習は日本語のみで行う形式を取り、理解を深めた上で実践的なコミュニケーション活動を行うことにより、効果をあげてきました。

  • 事前学習の徹底:学習管理システムを活用し、事前に講義ノートやワークシートを配布し、予習を前提とした授業を行っています。語彙学習や基本ドリルを授業前に徹底することで、授業時間内ではできる限りコミュニケーション活動に注力しています。

  • 映像メディアやCITを活用した自律学習能力の強化:実際の言語使用や日本文化に触れられる映像メディアやCITを多用し、学習者が自律的に活用できるスキルを育成しています。中上級クラスでは社会問題や時事問題に関するディスカッション中心の授業を行っています。

  • 母語話者との交流を重視:日本人学校や日系企業、日本から訪問する大学生や地方自治体との交流や協働学習をカリキュラムに統合し、異文化コミュニケーション能力や協働力の向上を図っています。また、ビジネス日本語コースでの企業訪問プロジェクトや日本人向け雑誌への記事連載、就職セミナーの開催など、多彩な学内外の連携を展開しています。ここ5年ほどは、青森県と連携し、学生たちが地元で学んできた地場産業をシンガポールで販売促進する地域活性化プロジェクトも実施しています。

以上のような教育者によるたゆみのない努力が実り、近年、日本語学習者数が回復し、到達度も向上してきました。図3は、過去23年間の日本語履修者数の推移をまとめたものですが、第二次日本語ブーム期(2000年~)で急増した学習者が、一時減少しますが、2023年には過去最多となっています。また、日本語1の学習者数は減少してきているものの、日本語学習を長期的に継続する学生が着実に増加してきていることから、全体的な日本語のレベルもあがってきていると言えます。

その一方で、以下のような課題も抱えています。

  1. 初級レベルでの学習断念

    シンガポールでは、成績が将来を左右するほど重視され、厳格な相対評価制度が採用されているため、専門科目との両立や厳しい成績競争を恐れ、日本語学習を続けたくても途中で断念せざるを得ない学生が少なくありません。たとえ成績に反映されなくとも日本語は学ぶ価値があるという認識を高めることが重要な課題となっています。

  2. 留学機会の減少

    JASSOの奨学金廃止や海外の日本語教育への補助金削減により、日本に留学する機会が減ってきました(ウォーカー 2019)。また、日本への往来が自由に楽しめるようになった現在、高い留学費用を払ってまで日本の大学に留学しようとは思わなくなってきました。卒業前に日本へ留学したり、生活したりする体験が得られないということは、日本との懸け橋を育成する上で、大きな問題です。

  3. キャリア支援

    数年前から日本語が副専攻できるようになり、上級レベルまで継続する学習者が増えてきました。しかし、学内に日本関連企業への就職を支援する就職課はなく、せっかく学んだ日本語をキャリアに活かそうと考える卒業生も限られています。そのような卒業生へのキャリア支援も重要な課題となっています。

英語と中国語を母語とし、日本語以外の科目(コンピューター、エンジニア、ビジネス、法学など)を専攻しながら、世界で最も習得の難しい言語の一つである日本語もマスターした学生たちは、日本や日本文化、日本語への深い思い入れがあります。そして、将来グローバルに活躍できる資質も備えています。シンガポールの大学では、卓上の学問だけでなく、社会性や協調性、リーダーシップなども秀でていなければ、優秀な成績は修められないからです(ウォーカー2015)。このような能力が十分に生かされ、将来日本と現地企業を結ぶ幹部候補生として研鑽を積んでいけるようなキャリアパスが望まれています。

おわりに

シンガポールの日本語教育は、両国間の安定した政治、経済、社会的関係の中、教育者たちの献身的な取り組みに支えられ、発展を続けてきました。その歩みは、学生一人ひとりの成長を支え、言語を通じた異文化理解と国際的な架け橋を築く役割を果たしています。特に、日本語をマスターした卒業生たちは、多言語スキルに加え、専門分野での高度な知識を持つグローバル人材として、世界の舞台で活躍する潜在力を備えていると言えます。

しかし、就職支援や留学機会の拡充など、課題も山積しています。日本語学習を将来のキャリアに結びつける取り組みは、教育現場だけで完結できるものではありません。教育と企業がより密接に連携し、未来に向けたキャリア形成の場を提供することが、日本語を学ぶ学生たちの選択肢を広げ、両国の架け橋として活躍する機会に繋がるでしょう。こうした取り組みが更なる相互理解と相互発展を促し、新たな価値を創出することは間違いありません。シンガポールの日本語教育は、このような未来を見据え、さらなる発展を目指していくことにより、未来を創る力を生み出していけることと思います。

<参考文献>

1 ウォーカー泉(2015)「海外の大学におけるビジネス日本語教育―シンガポールでの実践に基づく提言―」前田直子編『ビジネス日本語教育の展開と課題』ココ出版

2 ウォーカー泉(2019)「卓越した教育政策により成長し続ける都市国家」宮崎里司・春口淳一(編)『持続可能な大学の留学生政策』明石書店

3 ウォーカー泉(2024)「日本語教師の国家資格化は シンガポールの日本語教育に 何をもたらすか」『早稲田日本語教育学第37号』file:///C:/Users/CLSIW/Downloads/WasedaNihongoKyoikugaku_37_13.pdf

4 ウォーカー泉・森川洋子・伊藤晶子(2018)「シンガポールの日本語教育事情―グローバル人材育成に向けた取り組み」『世界の日本語教育』日本語教育学会 https://www.nkg.or.jp/musubu/.assets/msb20180401_2178688_01.pdf

5 郭俊海・奥村みさ他(2009)『シンガポール都市論』勉誠出版

6 国際交流基金(2021)「第2章 地域別の日本語教育状況」『海外の日本語教育の現状─2021年度海外 日本語教育機関調査より』https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/result/dl/survey2021/all.pdf

目次

<特集>


<編集後記>


執筆者経歴

ウォーカー泉(ウォーカー イズミ)

clshead@nus.edu.sg

シンガポール国立大学准教授、語学教育研究センター所長。米国、英国、日本の大学で教鞭を執った後、2000年よりシンガポール国立大学。年間1400名を対象とした日本語プログラム主任を20年務めた後、現職。優秀教授学部賞、大学賞を連続受賞し、2011年から優秀教授賞選考委員など教員のキャリア推進、人事制度再構築に関わる要職にも従事。2001年にシンガポール日本語教師の会を設立し、シンガポールの日本語教育の発展にも努める。『マーフィーのケンブリッジ英文法:中級編(監訳)』(ケンブリッジ出版)『初級学習者のための待遇コミュニケーション教育』(スリーエーネットワーク)ほか、外国語、日本語教育に関する著書・論文多数。研究・実践の成果を、国内外で発信している。

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